2017/11/09

近藤勇と調布の幕末維新展と深大寺白鳳仏国宝指定記念展をはしごした日

昼間、
自転車を飛ばして調布市郷土博物館へいき、
「近藤勇と調布の幕末維新」展を学芸員さんに解説してもらいながらみるという贅沢な時間。



いやあ、正直幕末は苦手だったのだが、
全体像が分かってくると面白いわ。近藤勇の生家とかは人見街道沿いなのでよく通ってて知っていたのだけど、近藤勇が養子にいってた話とか、その頃近藤勇が地元の人にとってどういう存在だったのかとか、
近藤勇を通して
徳川の時代から明治への端境期に
市井の人たちはどう対応していたのかが見えてきて、それがいい。
歴史って
頭の中で、その時代に市井の人たちが動き出すと、
急にリアルに感じられて面白くなる。

幕末維新って面白いけどややこしくて好きになれなかったのだが、
まあ複雑だからこそ面白いのだよねえ。
享徳の乱がそうであるように。←いやこっちの方がマイナーなんだけど

図録はないのかと尋ねたら←図録好きです
その代わり無料パンフレットが充実してますといわれる。
確かに、ペラ1枚じゃなくて、ちゃんと閉じられた立派なパンフレットで
特別展の概要が展示されてる文書の写真も含めて
細かく書いてある。これはいい。



さらに自転車を飛ばして深大寺へ行き、

前回見そびれた『白鳳仏国宝指定記念展 「はるかなる白鳳のほほえみ―深大寺釈迦如来像と寺のたから―」』へ。
まあこっちがメインだったのだが、
白鳳物国宝指定記念展って期間が短い上に開館時間も限られるので(深大寺本堂を使っているため)、なんとか行きたかったのだ。

「深大寺」という文字が初出の鎌倉時代の「磬」も展示されてたし、
平安時代作という毘沙門天像とか
白鳳仏のみならず、深大寺の歴史に関するものがいろいろと並べられてて
まことに興味深い。

あのエリア、多摩川から一段上がった府中立川崖線の上にあって
古くから賑わっていたのだよねえ。
日本書紀や続日本紀に渡来人が武蔵国へ送られた話が何度も書かれており、埼玉県の高麗がそのひとつなのだが、当時の多摩が朝廷の屯倉だったこともあり狛江郷にも渡来人がやって来てた(今の狛江市よりずっと広い範囲です)、

それに関連して深大寺のルーツに関する考察があり、
それがまた興味深い。

入間城山遺跡(入間川沿いの、世田谷と狛江に近いあたり)で発掘された
「高大寺」と書かれた土器が発端。

深大寺縁起によると深大寺は733年創建で、開創の満功上人の父親である福満が地元豪族の娘を見初めて、親の反対を押し切って結婚したところからはじまるのだが、
白鳳仏はそれより前の時代に作られたもので、
実は深大寺はもっと古いんじゃないかと仮定してみると、

「高大寺」(現存せず)は「高麗大寺」の略である。
(このあたりは渡来人が住みついて発展した集落で、高麗の大寺があっても不思議は無い)。
「神」という字には「かみ→こう」という転訛のケースがある。
(神々しい、神足、神戸。さらに上野国はもとは「上野毛」であり、「かみつけ」→「こうずけ」となった、などなど)

つまり
「高大寺(こうだいじ)」→「神大寺(こうだいじ)」→「神大寺(じんだいじ)」→「深大寺(じんだいじ)」と名前が変わっていったのではないかという説だ。

鎌倉時代には「深大寺」と掘られた「磬」があるのでそれ以前の話であるが、
はたして、高大寺→深大寺、というケースはありうるのか、
読みは同じだけど表記が変わるってケースはよく見るけど、
表記に合わせて読みが変わることはあるのか、
いやあ、とても面白い。
どっかで「神大寺」と書かれた文献か土器でも出ないかな。

と思いつつ、
途中、iPhone Xの作例をとったりしつつ帰宅。

ひさびさに晴れた日の自転車は楽しかったわー。

頭を切り替えてトリセツの仕事をする。








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