2017/04/14

幸手へ……内国府間の語源は?

都内某社の仕事あり。
幸手へ。

さすがに3日レンチャンは疲れますな。
幸手は「さって」。はじめて訪れる地である。
この3日間の行き先は下記地図の感じ。
真ん中が熊谷、左上が前橋、右下が幸手。
標高的には、幸手が一番低い。関東平野というより関東低地である。

「スーパー地形」アプリより

荒川→利根川と来たので今度は何川か。
権現堂川。今は「中川」。
江戸川の支流だったが、昭和になって中川の上流に付け替えられた。
ここ、低地であるがゆえ何本もの河川が複雑に入り組んで洪水が起きやすく、
昔からあれこれ治水されつづけてきた。
有名なのが「利根川の東遷」だ。

平凡社から出てる「地図で見る東日本の古代」から引用する。
「地図で見る東日本の古代」(平凡社)より
右下に幸手宿がある。
左に古利根川。権現堂川は古利根川の支流だったが、
江戸時代初期、上流部が掘削されて今の権現堂川になった。
この地図にはないが(別ページだったので)、この右側に江戸川や利根川が流れてる。

現代図だとこんな感じ。
左下の幸手駅のあたりが「幸手宿」。権現堂側は茨城県と埼玉県の境になってる。
川を渡ると茨城県である。
東京湾に注ぎ込む中川と江戸川、銚子に注ぎ込む利根川がここでは一緒になってるというのが面白い。
「スーパー地形」より。
同じエリアの明治初期である。
今は茨城県だが、昔は下総国(今の千葉県)の一部だった。
実は、江戸時代の途中まで、幸手も下総国だったのである。
武蔵国と下総国の境界は「利根川」で、中世の利根川の流路は今の「古利根川」であり、当時は銚子ではなく、今の隅田川に注いでいたのである。
そう考えると、往古の武蔵国と下総国の境がどうであったかわかりやすい。

超ややこしい利根川の変遷についてはこのサイトが詳しい。
利根川東遷の詳細 精密な地図で開削・締切・付替・廃川を示す Googleマップで現場を見てみよう


このあたりは徳川家康が江戸入部以来、いじられ続けているのでとてもややこしいのだが、それだけ水害が多くほっとくと流路がころころ変わる低地だったのだ。

でまあ、権現堂川沿いの権現堂堤は桜の名所になっていてこんななのである。
もう終わりかけてたけどね。




桜が終わりかけてたこともあり、こちらの狙いに合致した撮影ポイントも少なく、
午後早めに引き上げることに。

駅までちょっと距離はあるが、
何しろ幸手は古い街である。
日光街道の宿場はあったし、日光御成道もこの手前で合流してたし、
中世には鎌倉街道中道も通っていた。
何しろ、江戸や鎌倉から岩槻を経由して古河へつながる街道である。
室町時代の古河といえば古河公方の足利氏。
対するは関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏。
利根川(もちろん古利根川)〜荒川(もちろん元荒川)間の低地を挟んでにらみ合ってたのである。

というわけで、タクろうというクライアント様を制して、
駅まで歩きましょうというわたし。

ちょっと歩くと「内国府間」なる妖しい地名。
何しろ「内国府間自主防犯隊」である。
なんかスゴそうというか、破壊力抜群な名前じゃないか。

気になって帰宅してから調べた。
内国府間。読みは「うちごうま」。国府を「こう」と読むのはポピュラーで、国府津(こうつ)や国府台(こうのだい)など各地で観られる。
でも、幸手あたりはどこの国府からも遠い。
国府と国府の間にあったからじゃないかという話もあるが、
ちょっとこじつけくさい。
幸手市のWebサイトで信憑性高い見解を見つけた。
幸手市の文化遺産便り(VOL.10 PDF版)
[由来]「コウマ」とは河間の地の意味。
国府は当て字だったか。「河間」の「コウマ」なら、確かに地形的にそんな感じであり、納得できる。
にしても、「内国府間」「外国府間」って強力な字面だよな。

ちなみに「権現堂川」の権現堂は、昔、熊野・白山・若宮の三社の権現堂があったかららしい。今は熊野神社……だけど帰り道から離れてたので立ち寄れず。

3日連続のロケは体力的に死んだけど
普段、縁の無い熊谷・前橋・幸手と(特に中世の)歴史的に要チェックなポイントをちょいと訪れられたのでよしとしよう。

にしてもだな、
古い街はどこへ行っても面白いな。
今は「スーパー地形」アプリで古地図と地形を重ねて表示できるので
たいていの場所で古地図を散歩楽しめる。


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