2015/05/17

三島山中城址散策記-その1-山中城編

朝10時に三島駅南口集合。
なんなんだそれ(笑)。
結局みな乗る電車は同じなので
小田原駅で合流したのだけれどもね。

山中城址を散策し、三嶋大社を詣で、うなぎを食べて帰るという欲張りな日。

「山中城址」へは三島駅前からバスでいける。

戦国時代、後北条氏の支城があったところ。
1590年、豊臣秀吉軍の小田原攻めでさくっと落城した城。


1590年、秀吉軍は後北条氏の小田原城へ向かって攻め上がる。
東海道を使って家康や秀吉、その配下の軍勢が迫り、
東山道を使って北から回るのは真田や上杉など北方勢。
海からは水軍。これで小田原城を囲むわけである。

秀吉軍は沼津の三枚橋城に到着。ここから小田原へ向かう道は2本ある。
足柄路と箱根路。
もともと古代東海道は峻険な箱根路ではなく、箱根山の北側を回って足柄峠を越える「足柄路」が本道だった。箱根路は律令時代、富士山噴火によって足柄路が使えなかったときに整備された支道。
ただ距離的には箱根路の方が近かったため、鎌倉時代以降は次第に箱根路が使われるようになり、後北条氏の時代には箱根路が主に使われるようになった。
だから山中城は重要な防衛拠点だったし、秀吉は力尽くでそっちをつぶしていったわけである。
それが江戸時代の東海道に受け継がれている。

でも足柄路もまだ存在してたわけで、
後北条氏は秀吉対策として、
足柄峠の足柄城、箱根路の山中城、三島の南に韮山城と3つの城をおいて西側の守りを固めた。

その山中城である。当時の縄張りがきれいに残ってて整備されており、
後北条氏独特の「畝堀」や「障子堀」(通称ワッフル堀)が残っててたまらんのだ。

山中城攻めの大将は豊臣秀次(この時はまだ生きてたんだ)。
大軍で押し寄せ、半日だか1日だかで落城させたらしい。

ちなみに足柄城を落としたのは家康の家臣である井伊直政。

わたしが気になったのは家康の進軍ルート。
昨年、足柄古道を歩いたとき、矢倉沢あたりに「家康陣馬の跡」とされる史跡があったのだ。小田原攻めの際、家康がそこで陣を整えたらしい。
伝承はほんとか? 家康は足柄路を抜けたのか?
それがどうも違うらしい。

家康はというと、鷹巣城(というか砦?)を落とし、宮城野に向かったという。
鷹巣城は箱根路を抜け、芦ノ湖を越えた山にあった。
宮城野は神山の北側あたりで、小田原へ向かう道からは外れる。

井伊直政は沼津から足柄路を抜けて足柄城を落としたのか
家康と一緒に宮城野を抜け、乙女峠から足柄路に入ったのか。

よくわからん。まあ、足柄古道沿いにある家康陣馬の伝承が正しいとしたら、
足柄城を落としたあと、足柄路を抜け、北西から小田原城に向かい、小田原城の東側に陣を張ったのだろう。
津久井城を落としたのも家康の家臣だというから、足柄路を抜けて北上して津久井城に向かったと考えればつじつまもあう。

まあそんな細かい事を考えながら山中城である。やっと本題。
歩いたルートをGoogleEarth上にマッピングしてみた。


山中城祉バス停から旧東海道を歩き、芝切地蔵尊に立ち寄った後、
宗閑寺を抜けて城祉へ。

旧東海道・箱根路

虫歯地蔵

城祉着。左側のは土塁。この風景がもうたまらん。
 北条丸から西の丸へ。でもって山城跡を歩く。

これがワッフル堀! 正しくは障子堀だけど。
 駐車場に戻って唯一のお店でそばを食い、そのあとは箱根路を挟んだ反対側にある出丸へ。
出丸の終端にある通称すりばち曲輪

スリバチ曲輪を囲む土塁から畝堀と箱根路方面を臨む。
 そして箱根路を少し歩き、バス停から三島へ戻る。
箱根路(旧東海道)の石畳

続きは後編。

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