2012/01/10

成人の日の朝日新聞社説の痛さ

ああ昨日は成人の日だったのか。
20歳の頃「ああ、普通は成人式っていう自治体がやるイベントに出かけるものなのか」と知ってびっくりした記憶があるほどどうでもよかったのだが(あんなのに出るヤツなんかいないと思ってた)、
昨日、ネット上で話題になってた朝日新聞の社説だけはあまりにイタくて、例の尾崎豊を知ってるかというアレですな。


成人の日に―尾崎豊を知っているか


普通ならスルーすればいいのだけど、
キミが生まれた20年前、ロック歌手・尾崎豊が死んだ。その時のオヤジより少し下の26歳。
とある。 20年前に26歳よりちょっと上だったということは、今40代後半でわたしと同じ世代じゃないか。
えーーーーーー。
なんか自分と同じ世代の人間が
ああ、またオヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。
なんて書き出しの文章を書いてしまうことに泣けたのだ。
だって、20数年前、こういうのを読むたびに「こんなこといわれる筋合いなんかないわ。自分たちの世代が大人になったら決してこういうことは書くまい」、みんなそう感じてるに違いない、と楽観的に思ってたもの。
それがなんてこった。「オヤジ」とか「キミ」なんてカタカナで堂々と書いちゃうなんて。穴があったらはいりたい。上から砂をかけて埋めてくれ。
その上、中身がない。その上、他人事っぽい。

いくら「若者よもっと怒れ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。
でも、言わせてもらう。
この辺が極めて無責任極まりなくて痛い。
ああ、自分たちの世代の責任は重いなあと憂鬱になるのである。

いやまてよ、過去の伝統芸社説を引っ張り出して、そのフォーマットにのっとって、わざわざ中身のない形だけの文章を書いて反面教師になってみせたのではあるまいか。伝統芸を継承しないと社員としての立場上まずいのだけど、その痛さに気づいてて、だったら思い切り「伝統芸を継承したという形以外、何の意味も意義も無い社説」を書いてやれと考えたのではあるまいか。
そうでなければこれほどうわっすべりな痛い文章なんてなかなか書けるものではない。
こういう伝統芸フォーマットに即した文章は、中身がなくてもいいから型は崩さないでね、といわれれば、心に栓をするだけでさほど難しくはあるまい。新成人に語りかけるようにはじめ、自分が若かった頃の代表者を持ち出し、最近の言説を引用して昨今の風潮を憂い、「でも、言わせてもらう」でぶったぎって、最後に「ともあれ、おめでとう」でしめちゃえばいいのだ。
うん。そういうことにしよう。これはわざと痛い社説にしたのだ。
(もちろん最後の1行はボウヨミで)

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